プチひきこもりの、介護日記

両親介護 認知症 シングル 50代 プチひきこもり

耳栓でやさしく?

寝ているときと食べているとき以外は、ほとんど叫び続けている母。

その声は時々おそろしく大きい。

なだめても、なかなか上手くいかない。

耳元でもお構い無しで叫ぶ。

始めの頃は、母の喉と体を心配していたが、今では私の耳とストレスも心配だ。

姉にすすめられ耳栓を買ってみた。

最初は母の声がよく聞こえあまり効果がなく、がっかりした。

しかし気づくとテレビの音が聞こえない!

それだけ母の声が大きかったということか…。

耳栓をしていて、母の行動に気づかず何かあってはいけない。

耳栓をするのは、母の大声がひどいときや我慢できないときだけにして、耳栓をしている間はしっかり母の様子をみていることにした。

叫び声も、母の気持ちの表現だから無視は出来ない。

心なしか余裕が出来て、母に優しくできる。

このような状態では、通院も難しくなってきた。

こないだは病院で診察を待っている間に、大声を出して、周りに気をつかった。

先生は「大きな声が出るのは、健康な証拠だよ」と言ってくれた。

今の状態は、母にも負担が大きいので、今度の診察の時に薬について相談をしようと思う。

母も私も、少し楽になれると良いのだけど。

 

 

 

 

 

わかってるのか、わかってないのか。

母はてんかんの薬をやめてから、信じられないくらいの大声で叫ぶようになった。

認知症てんかんも混ざりあって、もう区別はつかない。

朝も夜中もなので、本人にも家族にも負担になるのだが。

てんかんの薬を飲んで、寝たようになってしまったので、姉が「本人らしさがなくなってしまう」と先生に言って薬をやめたのだ。

大声、叫ぶ、手で物をバンバン叩く、足でどんどん蹴る。

聞いてて、我慢ができなくなってくる。

認知症の周辺症状は周りの環境次第とのことなので、なるべく気をつけているのだが。

それにこちらも人間なのだ、長く介護をしているといろいろある。

今度は私の腕をつかんで放さない。

すごい力だ。

無理に放そうとすれば、怒りだすので、そのままにしている。

そんな時、母が言った。

「えらいと思うよ」

「誰が?」と聞くと

「あなた」

母の状態ではわかって言っているのかは、わからない。

でもちょっと驚いた。

続けて「だから明るくしてあげよう」と言って、「えーっ」と大声で叫び始めた。

そうきたかぁ…。

 

 

 

 

 

 

あくまでも脇役です

苦手な先生に会うとき、姉は気合いをいれたメイクと服になる。

圧をかけるつもりらしい。

先生はパソコンのカルテと患者である母の顔しか見てないと思うのだが。

付き添いである娘の顔はまだしも、服なんて…。

私たちは脇役なのだから。

そして何故か靴下は左右が不揃い。

「洗濯すると片方なくなるのよね。」

まず、そこを何とかした方がいいんじゃないかと、私は思うのだが。

 

 

 

ぎゅっと

少し前まで、布を結ぶのが母のブームだった。

洋服の袖、毛布、靴下、とにかく結び目をつくっていた。

今は物をぎゅっとつかむのがブームになった。

何か不安で、物を握りしめているのではないかと、少し気になる。

敷布団のカバーをぎゅっと握りしめ、そのまま動くので布団はぐちゃぐちゃだ。

小さな子どもが、タオルを引きずりながら歩いてるならかわいいが、90才近い母が、布団を引きずりながらハイハイしている様子は、何と言えばいいのか…。

小柄で痩せて、もうひとりでは歩けなくなった母の、一体どこにそんなパワーがあったのか。

それでも少しほっとする。

認知症がすすみ、すっかり様子が変わってしまった母だが「まだまだ大丈夫」。

よくわからないがそんな気分にさせてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

1日の始まり

母が叫ぶようになった。

日によっては一日中。

夜中は近所に気をつかい、何とか静かにさせようとして気持ちに余裕がなくなってしまう。

認知症てんかんと、混ざりあって区別は難しい。

夜中、母の大声で目が覚めることもしょっちゅうだ。

朝、母の声で起こされないだけでも、ほっとした気分になる。

まぁ、そんなことはめったにないのだが…。

今朝は珍しく母は遅くまで寝ていた。

前々日の夜中、ほとんど寝なかった反動だろう。

自分の部屋で少し用事をしていたら、カラスが鳴いた。

朝からカラスとはあまりいい気分ではない。

こないだも玄関の外の階段の踊り場にずっと止まっていて、ちょっと困ったばかりだ。

「あー、あー、あー」

また鳴いている。

ん?

お母さんだ!

急いで母の部屋にかけつける。

さっきまで寝ていたのに、起きてて叫んでいる。

今日も1日が始まる。

 

 

 

初めて家族を見送った。

いつもは予防接種も痛がり、足をばたばたさせていた父。

入院中は、苦しいとも痛いもと帰りたいもと言わなかった。

つらい状況のなか、私たちを心配させたり困らせるようなことは言わなかった。

最期には間に合わなかった。

病室に横たわった父は、いつもと変わらず寝ているようだった。

緊急を知らせる医療機器の音だけが、父が亡くなっていることを知らせていた。

デイと病院の対応が、私たちの悲しみをさらに深くした。

今は何も考えないようにしている。

ただ父が苦しみから解放されて、安らかであることを信じて。

それでも、悲しくなることがある。

会いたいと思う。

いろいろな後悔が頭をよぎる。

もしあの時こうしていたら…。

もっと優しくすればよかった…。

そんな時は心の中で「ありがとう、お父さん」それだけを思うようにしている。

父も私たちも、前向きに歩いて行けるように。

ありがとう、お父さん。

ありがとう。

 

父が亡くなったこと、ブログに書くか、かなりの間、悩みました。

知らない方にわざわざ身内の不幸をお知らせすべきかと。

しかし私の中で父の存在は大きく、それに触れずにはブログを続けられそうもありませんでした。

母には知らせていません。

大声で叫び続ける母には、知らせても理解できるかわかりません。

母の中でも私の中でも父は今まで通りに存在していくのだと思います。

今回のことで父から多くのことを学びました。

今までは気づかなかった、父の大きさを知りました。

感謝の言葉しかありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子守歌

母は、長いこと幼稚園に勤めていた。

いろいろなわらべ歌や童謡を知っていた。

私が大人になってから、聞き覚えのない歌を歌うことがあった。

私が子供の頃には聞いたことのない子守歌だった。

お父さんが寝ていて、娘の私がお父さんの眼鏡をのぞきこんでいるような歌詞だった。

初めて聞いたとき、メロディのせいか、ちょっと寂しい気持ちになったのを覚えている。

たまに思い出しては、母に歌ってもらった。

今では母はもう歌を歌うことはない。

尋ねても、思い出すことはないだろう。

頼めば、いつでも歌ってもらえるものだと思っていた。

母の場合はてんかん認知症が急に進んだせいもあるだろう。

親は年老いていくということが、実感出来ていなかったのかもしれない。

母の声で聞けなくても、せめてと思いスマホで検索してみたが、見当たらない。

母との思い出がひとつ失われた気分になった。

認知症はこういう病気だとわかっていた。

今までは、母のもの忘れを認知症だからと受けとめられていた。

それは母が忘れても私が覚えていたからかもしれない。

私の知らない母は失われていくのだ。

ならばせめて、私が覚えている母を大切にしようと思う。

認知症が進んで大変なことも増えてきた。

そんな母の姿も大切に覚えていたい。

いい思い出ばかりではないが、母の生きた証なのだから。