プチひきこもりの、介護日記

両親介護 認知症 シングル 50代 プチひきこもり

紙パンツか、紙おむつか

近頃、紙パンツからおしっこが漏れて、ズボンやシーツを濡らしてしまうことがある。

おしっこの量が増えたとは思えない。

考えて思いついたのは、以前は立ったまで紙パンツと紙パッドを取りかえていたが、最近は寝ている状態で取りかえているということ。

ちゃんと装着出来ていないのかもしれない。

ネットで調べてみたら、横になっている時間が多くなったら、紙パンツじゃなくて、オムツタイプが良いらしい。

早速お店に行ってみた。

ずら~と並んだ、介護パンツコーナー。

各メーカーから何種類も出ている。

オムツタイプを探して、紙パッドを選ぶ。

4回6回、どちらがいいのか?

必用に応じて種類も増えたのだろうが、種類が多すぎるとなかなか決められなくなる。

便利なのか不便なのか?

そしてみんな大容量。

ちょっと試してみるって量じゃない。

うーん、試しに使ってみるしかないかぁ。

 

 

 

靴がない

この頃何も出来ない。

やる気がでない。

寝てるか叫んでいるかの母とのふたり暮らし。

精神的に疲れてしまったようだ。

外出は日用品の買い物と母の通院と自分の通院。

それも、私にとってはかなりの負担なのだが、人に触れ世間に触れる数少ない機会た。

嫌なことも起きれば、楽しいことも起きる。

先日姉の車で、母を病院に連れて行った時のこと。

病院について、母を車イスに移そうとしたときに、姉が「あれ、靴はいてない

片足だけ履いていない、探してもない。

駐車場で母を車に乗せたときに、脱げてしまったらしい。

車が走り去った後に、靴が片方残っていたと思うと可笑しいが…。

春用の靴は一足しかない。

見つからなかったら、買わないとだ。

帰るまでそこに置いてあるだろうか?

誰かが隅にでも避けておいてくれているだろうか?

帰りながらちょっとドキドキしながら、やっぱり可笑しかった。

家に近づくと、姉が「あった」。

駐車場のポールに寄せて置かれてあった。

買わずに済んで良かったというい気持ちと、隅に寄せておいていてくれた方に感謝の気持ち。

やっぱり珍道中に笑えた。

たった1足の靴でこんなに笑えるのは家族といるからだろうか。

「家族って大変なことも多いけど、それでも家族っていいなぁ」そんな風に思えた出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 

空のスプーン

相変わらず、起きているときは叫んだりふすまをどんどんと叩いている母。

この頃、何度か微熱をだすことが続いた。

食事中にむせることが増えたので、気になった。

姉には、神経質だと言われたが、やっぱり気になって訪問看護の時に聞いてみた。

むせるのと微熱は関係なくはないとのこと。

食事の姿勢や、本人に食事をしている認識がある状態かなど、いろいろ聞かれた。

とろみもつけているし、姿勢も気をつけているつもりなのだが。

すると食事を喉に落とすスピードをゆっくりにするようにすすめられた。

飲み込めないで、喉にたまっている場合があるらしい。

今までは母が口を開けたタイミングで、口に食べ物を運んでいた。

口に食べ物が残っているときもある。

そこで「空スプーン」という方法を教わった。

口を開けたら、空のスプーンを口に運んで、咀嚼と飲み込みをうながすことが出来るらしい。

なるほど~。

早速試してみた。

いつもは箸での介助だが、今日はスプーンで。

母が口を開けたタイミングで、空のスプーンを口に運んでみた。

普通に口を閉じて、もぐもぐしている。

なんか楽しい!

次は食事を口に運んで、その次にまた空のスプーン。

ん?

今度は口を閉じない。

しばらく待ってみる。

母も口を開けて待っている。

大分たってから、口を閉じてもぐもぐ。

それ以降、母はごまかされなかった。

1回で空のスプーンは、見破られてしまった。

認知症がかなり進んでしまっている母の、意外な一面。

認知症って不思議。

 

 

 

美味しい?

少し前、母は食欲旺盛だった。

何でもない普通のものでも、「おいしい、おいしい」と食べてくれた。

食が細くなった時期もあったので、食べてくれることはうれしく、体力面でも安心することができた。

ところがここ最近、「おいしい」と言わなくなってきた。

同時に食欲も少し落ち着いてきたようだ。

高齢、認知症でコミュニケーションも難しくなっているので、少しのことでも気になってしまう。

食欲を取り戻し、たくさん食べてもらおうと、母の好きな物を用意した。

また「おいしい」と言ってくれることを期待して。

少しずつ口に運ぶと食べるが、母は何も言わない。

つい「おいしい?」と聞いてしまう。

何も言わない。

もう一度「おいしい?」と聞いてしまう。

言葉にしなくても、前のめりで食べている様子をみれば美味しいと思っているのはわかるのだが。

母の言葉が聞きたい。

寝ている以外は、ほとんど叫んでいるようになった母。

発する言葉も「お父さん」「姉ちゃん」「お父ちゃん」「痛い」「怖い」

調子が良いときは「ありがとう」「すみませんねえ」と言うが。

「おいしい」は、母の数少ない喜びの表現なのだ。

その「美味しい」も、とんでもない所を見ていたり、大声だったり、とても美味しいとは思えない言い方なのだが。

それでも喜んでいる言葉を、母の声で聞きたくて。

つい「美味しい?」と聞いてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

入院は難しい

コロナの流行がなかなか収まらない。

オミクロン株は感染力が強いので心配だ。

母が高齢だというのもあるが、母の状態で入院は難しいだろう。

あれだけ叫べば、周りにも迷惑だ。

何より拘束されれば、更に大声になり暴れるだろう。

そうなれば認知症も一気に進んでしまう。

コロナではなくケガや病気で入院となっても結果は同じだ。

今は救急車を呼んでも、なかなか搬送先が見つからないという。

高齢、認知症となればなおさらだろう。

ケガや病気に気をつけて、なんとか無事に乗りきりたい。

家族に高齢者がいる人は、みな同じ思いだろう。

幼い子どもがいるとか、持病があるとか、立場は違っても家族を心配する気持ちは同じだ。

安心して過ごせる日が、早く来ますように。

 

 

 

届くことも、届かないことも

畳や布団の上で、用を済ませるようになっていた母だったが、てんかんの薬を止めてから、ぴたりと止まった。

紙パンツにするようになり、そしてたまに「トイレ」と教えてくれる。

「トイレ」と言われて連れていくが、出ることはほとんどない。

すでにパンツが濡れていることが多い。

トイレを我慢した感覚が残っているのか、パンツが濡れている感覚なのか、「トイレ」と訴える。

もう歩けなくなってしまった母、リハビリのつもりでトイレまで支えて歩くのもいいかなと思うのだが。

5分も開けずに「トイレ」、一晩で5回もトイレとなると話は違ってくる。

「さっきも行ったよ」と思うのだが。

トイレに行きたいのを我慢させるのはかわいそうで出来ない。

ふたりで、よちよちトイレまで。

「ついでに母の手を洗えるし」と思って頑張ってみる。

便座に座ると今度は大声で叫ぶ。

これは勘弁してほしいと思うのだが。

叫んでいる間も、私の手をしっかり握っている。

多分不安なのだろう。

「大丈夫、大丈夫だよ」声をかける。

1日何度も繰り返す言葉「大丈夫だよ」

母に届くことも届かないことも。

それでも何度も繰り返す。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 

 

 

 

 

 

 

理想と現実

母は布を強く握りしめるようになった。

布団カバー、毛布、枕カバー、なんでも。

カーテンをつかんでは、寝ころんだままターザンのようにぶら下がっていることも。

今年で90才になる母。

体も小さくなり、腕も足もすっかり細くなった母の一体どこにそんな力がと思うほどの強さで握りしめている。

昔は握力が弱かったはずなのだが。

つかむ力のつよさが、不安の強さをあらわしているのではないだろうか。

そう思うと、つかんでいる物を放させる時も、安心させるように話しかけ、ゆっくりと丁寧にと気をつかう。

だが…、だがなのだ。

頭でわかっていても、実際の状況によっては難しくなるのが介護だ。

「トイレ!トイレ!」と叫ぶ母の手には握られた毛布。

トイレに引きずって行くわけにはいかない。

衛生的にもだが、転びかねない。

なだめて毛布を放そうとしても、しっかり握られた手は開かない。

優しくなだめても時間が経つばかり。

私の耳もとで「トイレ!トイレ!」と叫ぶ母の声に、つい「えいっ!」と力まかせにで手を開かせてしまう。

何事も思ったようにはいかない。